※ネタバレ満載なので、実際に行って発見を楽しみたい!という方はお戻り下さいm(_ _)m
園内の前に参道周辺を攻略したい方は「参道を散策!」へどうぞ。
料金所に掲げられた「成趣園」
料金所に大きく「成趣園(じょうじゅえん)」と書かれた木板が掲げられている。それをよく見てみると、「護煕(もりひろ)」と書かれているではないか。そう、この文字は細川護煕氏による直筆なのだ。
1993年に第79代内閣総理大臣になった細川護煕氏は、何を隠そう旧肥後熊本藩主細川家の第18代当主である。2014年度の東京都知事選に立候補したのは記憶に新しい。
明治天皇臨幸碑
成趣園に入ってまず目に入るのが「明治天皇臨幸碑」だ。右の碑文によると、
明治5年(1872年)6月19日に明治天皇は酔月亭(古今伝授の間がある場所にかつて存在した御茶屋)でいろいろ楽しまれたそうだ。
(読解力がなくて読めない・・・)
昭和7年(1932)年2月12日、明治天皇聖蹟光揚会によって設置された。
(ず、随分と後になってからですな。。。)
碑文の全文はこちらへ→taronの日記様
園内にある公衆電話ボックス
あなたは園内にひっそりと存在する公衆電話ボックスを知っているだろうか。この電話ボックスはただのボックスではないのだ。レトロな感じだがもちろん使える。だが問題はそこではない。実はこれ、九州第一号の電話ボックスなのだ。
元々は明治34年(1901年)2月に、熊本郵便局坪井支局(現在の熊本南千反畑郵便局)の前に九州で最初に設置されたもので、当時は公衆電話を「自働電話」と呼んでいたそうだ。
どうやら現在あるこのボックスは復元されたものだそうだが、そのオーラは時代を越えている。来園した際には、ぜひこの電話を使ってみてほしい。
古今伝授の間
出水神社
日本橋をイメージした石橋
現在調査中です!
幽斎公三百年祭記念碑
現在調査中です!
稲荷神社
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祭典は、3月初午の日と11月8日に斎行される。
長岡護全公銅像跡
長岡護全(もりまさ)公は、最後の肥後熊本藩主(第12代)だった細川護久公の長男である。明治37年(1904)の日露戦争で、華族として初めて戦死したのだ。
水前寺富士
成趣園のシンボルとも言えるのが、この富士山を模した水前寺富士だ。こんもりと盛り上がった丘はどこか可愛く、青空とのコントラストも爽やかである。
現在は芝生内は立入禁止であるが、昭和の頃は自由に登れる場所だったことが、熊日写真ライブラリー「水前寺」から見てとれる。
実はこの水前寺富士、西南戦争の時には砲台として使われていたこともあるのだ。想像したくない事実である。
【懐古】 水前寺動物園の入口 現在は駐車場および流鏑馬の馬場
昭和44年(1969)2月まで、成趣園西側(水前寺富士裏側)には動物園があった。ちょうど写真の位置が入り口と思われる。当時の住民によると、麒麟が庭に顔を出してきて、家に居ながらにして餌をやったという逸話も。
特にそれを示す看板などはあるわけではなく、皆気づくことはないだろう。
マウスでカーソルを画面上に置くと、当時の画像に変わるぞ!
忠利公と藤孝(幽斎)公の銅像
水前寺富士の西側に堂々と建立されているのが、成趣園を造園し始めた忠利公と、その祖父の藤孝公だ。
2人の目線はまっすぐと雲仙普賢岳の方向を向いている。
水前寺菜の栽培場
上記の2人の銅像を抜けると、水前寺菜の本籍地が広がっている。
水前寺菜は天ぷらにしても美味しいのだが、11月に限定開店した参道Cafeでは、特別に水前寺菜が混ぜ込まれた水前寺餅が登場!美味しかった…。
能楽殿
もともとあった能楽殿は昭和40年(1965)に焼失してしまったが、昭和61年(1986)に、昭和天皇御在位60年を記念し旧八代城主松井家より移築奉納された。
かつてこの裏手には水前寺プールと呼ばれる公共プールがあり、満員の時には成趣園の池で泳ぎだす子もいて、叱られることもあったそうだ。
▼当時の映像と共にこのプールの思い出を綴っていらっしゃる方のブログ
太鼓橋 園内で唯一のアーチ式石橋
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