熊本(肥後)藩の細川家は、肥後細川家3代・忠利から始まります。
細川(ほそかわ)家の熊本藩主
外様 54万石 (1632年~1871年)
1. 忠利(ただとし)〔従四位下、越中守・左近衛権少将・侍従〕
2. 光尚(みつなお)〔従四位下、肥後守・侍従〕
3. 綱利(つなとし)〔従四位下、越中守・左近衛権少将・侍従〕
4. 宣紀(のぶのり)〔従四位下、越中守・侍従〕
5. 宗孝(むねたか)〔従四位下、越中守・侍従〕
6. 重賢(しげかた)〔従四位下、越中守・左近衛権少将・侍従〕
7. 治年(はるとし)〔従四位下、越中守・侍従〕
8. 斉茲(なりしげ)〔従四位下、越中守・侍従〕
9. 斉樹(なりたつ)〔従四位下、越中守・左近衛権少将・侍従〕
10. 斉護(なりもり)〔従四位下、越中守・左近衛権中将・侍従〕
11. 韶邦(よしくに)〔正四位下、越中守・左近衛権中将・侍従〕
12. 護久(もりひさ)〔従四位下、右京大夫・侍従〕
藤孝(幽斎)公 / 細川家初代当主(肥後細川家の祖)
生誕:天文 3年4月22日(1534年 6月3日)
死没:慶長15年8月20日(1610年10月6日)
戦国時代、幽斎は京都御所の八条宮邸内に建てられた八条宮家初代・智仁親王の御学問所(後の「古今伝授の間」にあたる)で、智仁親王に『古今伝授』を授けた。
彼は文武両道の秀才で、太鼓の名人でもあった。出家していて能を演じられなかったときにも太鼓だけは弾いていたり、時代が混乱に陥って戦いに挑もうとしているときでさえ、文学の研究を続けていたそうだ。
そして幽斎の時代を見通す目の確かさは、織田信長との関係からよくわかる。
いかに幽斎の才能が広く認められていたか。
西暦1600年、天下分け目の関ヶ原、その決戦を前に石田三成率いる西軍(豊臣派)と東軍(徳川派)の争いが始まり、幽斎公の城を敵が完全包囲した。その時、後陽成天皇が介入し、ある勅旨が告げられる。「幽斎を失ったら古今伝授が永久に途絶えてしまう、打ってはならぬ。」というものだった。
天皇が武家同士の争いに介入をはかるのは、後にも先にもこの時だけ・・・。
この出来事は、少なからず石田光成の運命をも左右したことは否定できない。
忠興(三斎)公 / 細川家 第2代当主 / 肥後細川家 初代
生誕:永禄6年11月13日(1563年11月28日)
死没:正保2年12月02日(1646年 1月18日)
実父:幕臣・細川藤孝
養父:一族の細川輝経(細川奥州家)
妻:玉子(通称、細川ガラシャ)
千利休の高弟で茶道に秀でた利休七哲の一人。織田信長や豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後に徳川家康側につく。
伽羅奢(ガラシャ 通称:玉) - 忠興公の正室
生誕:永禄6年(1563年)
死没:慶長5年7月17日(1600年8月25日)
明智光秀の娘。
関ヶ原の戦い直前の慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、西軍の石田三成はガラシャ夫人を人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせて亡くなる。その後は神父により遺骨が堺のキリシタン墓地に葬られ、忠興公により大坂の崇禅寺へ改葬した。他にも、京都大徳寺塔中高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがある。
忠利公 / 細川家 第3代当主 / 肥後細川家 第2代 / (細川家)肥後藩初代藩主
生誕:天正14年11月11日(1586年12月21日)
死没:寛永18年03月17日(1641年 4月26日)
細川忠興の三男
母:明智光秀
娘:細川ガラシャ(玉子)
寛永13年(1636年)頃から「国分の御茶屋」を築き、これが「水前寺成趣園」の始まりとなる。 また、彼は肥後藩主になる際に、熊本城を築城した加藤清正公を敬う態度を示したことにより、それ以降、清正公が神格化されたと言われている。また、忠利公が死んだ際、徳川家光(江戸幕府 第3代将軍)は「越中早く果て候」(死ぬのが早すぎた)と嘆いたそうだ。
忠利公は熊本名物「辛子蓮根」と深い関わりがあります。
光尚公 / 細川家 第4代当主 / 肥後細川家 第3代 / (細川家)肥後藩第2代藩主
生誕 元和5年 9月19日(1619年10月26日)
死没 慶安2年12月26日(1650年 1月28日)
綱利公 / 細川家 第5代当主 / 肥後細川家 第4代 / (細川家)肥後藩第3代藩主
生誕 寛永20年 1月08日(1643年 2月26日)
死没 正徳 4年11月12日(1714年12月18日)