公式サイトの解説ぺージはこちら『出水神社について』
さらなるお話はこちら『なごみ紀行 No.026 「 出水神社の歴史 」』
出水神社の名前の由来は言わずもがな、阿蘇から湧き出る水によるものです。 ご利益は合格祈願、病気平癒、無病息災、商売繁盛、縁結びなどがあります。
藩祖藤孝(幽斎)
2代忠興・3代忠利・6代重賢
主祭神以外の歴代藩主
および忠興の妻の玉(細川ガラシャ) の11柱
明治11年(1878年)10月7日、旧藩士松井章之らの請願により藩主別邸の跡である成趣園内に創建され、成趣園全域が当社の社地とされました。熊本の街はその前年までの西南戦争により焼け野原となっており、その復興にあたり人心の寄り所とするためでした。社紋は細川氏の家紋と同じ細川九曜紋です。
しかし、第2次世界大戦により社殿は殆ど焼失し、御神庫と神楽殿は辛うじて難を逃れ、現在の社殿は昭和48年12月7日に完成しました。
昭和天皇御手播(おてまき)の松 昭和6年(1931)11月
熊本平野等で陸軍特別大演習の統監などで来熊された際に蒔かれた松である。
昭和天皇は他にも、第五高等学校(現 熊本大学)や熊本県立中学済々黌(現 熊本県立済々黌高等学校)などをご視察されるとともに、回春病院(熊本初のハンセン病病院)を設立して大きな功績を残したハンナ・リデル(Hannah Riddell)ともお会いになっている。天皇陛下はこのあと鹿児島を視察し、横須賀へ「榛名」に乗艦し帰京された。
行幸の砌(ぎょうこう の みぎり)=天皇が外出された際に。
手水舎(てみずや)
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長寿の水
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五葉の松
元々は綱利公(細川家第3代)の盆栽だったものが、ここまで立派な松に成長した。樹齢は400年を超えるそうだ。
余談だが、2014年7月に放送された「国分太一のおさんぽジャパン」では、この盆栽を間近で観た国分太一が、「大事にされてるね。美意識ですよ。こういうものが生き残ってるというのがすごい、素晴らしい!」と感激していた。
宗不旱(そう ふかん)の歌碑 昭和23年(1948)建立
宗不旱(明治17年(1884)5月14日~昭和17年(1942)5月末)は、熊本市出身の歌人である。県内に5つある歌碑の中でも一番最初に建立されたものである。
「ふる郷になほ身を寄する家ありて春辺を居れば鴬の鳴く」
詳しくは以下のリンクを参照していただきたい。
光復牌(復興記念碑) 昭和48年(1973)建立
第二次世界大戦からの一連の社殿復元竣工を記念したものだ。この筆は、細川護貞公(旧肥後熊本藩主細川家 第17代当主)によるもの。彼は第2次近衛内閣で内閣総理大臣秘書官も務められた。